家族

当時の状況 – 家族 – 妹

大学生 時代

2018年3月から2019年3月までの記録

部活、私生活にて様子に変化(2018/3/1〜)

私の兄への接し方は最悪だった。3月5日が私の誕生日で兄は連絡をくれて、その流れで「俺も就活めっちゃ大変やけど頑張る。精神病んでる、、ほんま倒れそう。やりたいことが見つからない」ときていた。兄はいつも周りが驚くような結果を出してくることも多く、そう言いつつもなんだかんだ大手に内定をもらうと正直思っていた。私は就活がどれだけ大変なのか、就活以外でもいろいろ悩んでいると知らないくせに深く考えず、「この時期にやりたいことないって終わってるな」と無責任な返事をしていた。深い意味もなくなんとなく返事をして、それも兄の精神状態に追い打ちをかけるような返事で本当に最低だった。

自殺未遂(2018/3/11)

夕方か夜ごろに家に帰ると、姉が家にいて泣いていて、みんな深刻な表情をしていて、状況を理解できなかった。その時に私は兄が倒れたとだけ聞いた。就活、部活、バイトに勉強、頑張りすぎて倒れてしまったのだと私だけ思っていた。家族の様子があまりにもおかしかったのでちょっと変だとは思っていたけど、どうして倒れたかを私にも話すと、私も困惑すると思ったからから、家族みんな倒れた理由の話は当日にしてこなかった。

入院生活(関東労災病院)(2018/3/11〜22)

3月12日母から兄は自分から倒れるよう行動したと聞いた。兄は関東の病院にいたし、私が行ってなんと声をかければいいのかもわからなかった。最初はなぜなのかはわからなかったけれど、考えてみれば今まで妹の私に対して弱音を吐いたことはほとんどなかった。時々連絡を取れば、「もっと頑張る!」という内容だった。母に相談することはあったかもしれないが、わざわざ私にまでつらいという内容のラインを送ってくることはなかったのに、妹の私にも言ってしまうくらい追い込まれていたのに、深く考えず対応してしまったことをずっと後悔した。ほかにも要因があったとはわかっていても、自分がその時電話の一つでも入れていたら、両親に兄からこんな連絡がきたから限界なのかもと伝えていたら、もっと考えて行動していたら、兄が行動を起こすことはなく今もこんなに追い込まれることなかったのでははないかと毎日思った。また母が家で泣いている姿を見たのも初めてで、自分がプレッシャーを与えてしまったからと自分自身のことを責めて泣き崩れている母を見るのも、父と長男がどちらも兄を思ってだけど言い合いをしているのを聞くのも、とても辛かった。とにかく家の中がずっと混乱していた。

大阪帰省(2018/3/23〜4初旬)

兄が大阪に帰ってきて、姉の結婚式があったので兄はできるだけいつも通りに頑張ろうとしているように見えた。でも家では表情が悪く、どう考えても、いままで通り学校やバスケにこの精神状態で行けるとは思えなかった。戻ることが辛かったらやめたらいいと思ったが、やめて大阪で暮らすことになったとしたら、何もしていない自分に対して兄の性格上、自分を責めてしまいそうで、少なくとも大学には無理にでも戻すべきなのか、とかとにかく兄自身が最善だとおもう方向がなになのかずっと考えていた。

再び神奈川へ(2018/4月初旬)

4月の初め、兄と2人でいるときに「あかん、この感じ3月の初めに似てる。今でも思うねん。俺もうおらん方がいいんちゃうかって。」と言ってきた。兄のほうが何倍もつらいのに、私が泣いている姿を見たらまた兄を追い詰めてしまうかもしれないのに、兄の前で泣いてしまった。自分の中で兄は努力もすごいのだけれど、兄弟の中でもバスケ、勉強の成績もずば抜けている印象で、だから勝手に兄はすごい人で大変なこともなんでも乗り越える人って思っていた。でもこう言われたときに、私や私以外の人もそう思っていたことが全面に出ていたから、期待に応えるために頑張りすぎてそれでキャパオーバーにさせてしまったと思った。このとき私は生きてさえくれていればそのほかはどうでもいいって思っていたし、大学をやめようとバスケをやめようと元気でいてくれたらいいと思って。それをうまく言えなかったけど伝えた。

慶應病院入院(病院から大学へ通学)(2018/4/12〜5/6)

当時は大学に戻るという決断をしたとき、とても心配だった。もちろんもう行動は起こさないと信じていても、一人になったとたん混乱して正常な判断ができなくなってしまうのではないか、家族が側にいなくて大丈夫なのか、いろんな不安を抱えながら生活していた。この時のわたしのほとんどの悩みが、この件に関する兄への心配であったり家族内の問題であったりして、その家族内の問題を誰かに聞いてほしかったわけではないけど、でも誰にも言えず、自己消化するしかない状態で自分自身も今思うと精神的に疲れていた。就活というワードを耳にしたり、たまたまバスケの友だちをいるときに兄の話題が出て、「俺匠君めっちゃ尊敬してるねん!」と言われるたび、嬉しいことなんだけど、胸がざわつくような感覚がずっとあった。

チームへ復帰(2018/5/7)

後輩にも休んでいた謝罪などをしてチームに復帰すると聞いて、私なりになにかサポートできることはないかと考えた。お昼に部活に行くと聞いていたので、朝きっとすごく気持ちが重くて不安だと思ったので、朝は自分がそばにいようと思い東京に行った。私はいつも通り、兄と接した。少し緊張しているように見えたけど、前よりもまだしゃべれるようにはなっていてほっとした。なにより慶応のバスケ部の方たちが、2か月弱休んでいた兄を、自然な感じで迎え入れてくれて、それが兄にとってとても大きかったと思う。

その後の生活・活動(2018/5/7〜)

部活に復帰してからほぼ毎日連絡を取るようにしていた。特に初めの2週間くらいは精神的にしんどそうだった。真相を知らない人にうそをついているような状態も性格上きついけど真実を言うこともできない。休んでいた時期のことを何かしら聞かれるときはいつもしんどそうでした。やめようと思ってもそう思ってしまうことを辞められるものではないと思ったし、辞められないからこんなに兄は苦しんでいるのだと思ったので、とにかくどんな感情かとか話をいっぱい聞くことにした。私にはそれくらいしかすることができなかった。就活がまだ終わっていなくて、兄が面接に行くたびにいつも胸がキリキリしていた。なにかの拍子でまたフラッシュバックしたり、投げ出したくなったりしたときに、すぐ近くにいられないのがつらかった。内定をもらったりしてから、少しずつ戻った環境に慣れていくような感じがした。

引退・卒業(2018/11初旬〜2019/3)

最後のリーグ戦の試合の時期にはバスケを本当に楽しんでいるように思った。この時期は慶應バスケ部の同期の方々と一緒にいることが本当に楽しそうだったので、その姿をみて安心した。いくら家族だからといっても、家族内での兄の悩みがあったり、物理的距離の遠さでサポートしきれていない部分はこの時期にもたくさんあった。しかし、いつも側にいてくれる同期の方たちが、兄に大学や部活に戻れる環境を残しておいてくれた。誰にも知られたくないという兄の気持ちを行動に移してくれた。一度は大学もクラブをやめるかもしれないという選択もあったが、結果的にどちらもすることができたのは家族以外の身近な人の支えがあるからだと思った。私自身はもう今まで通り接していた。

社会人 時代

2020年3月から2020年9月までの記録

社会人生活、沈み始め(2020/3月初旬)

3月は自分の就活の話を聞いてもらっていてずっと連絡を取っていた。私の話をしっかり聞いてくれて、励ましてくれていたので、正直沈んでいることに気づいていなかったが、コロナもあって仕事が大変そうだなあとは思っていた。ラインだけでは伝わりにくいこともあるので、母と私で兄とビデオ電話でお互いの近況を話しながらごはんを食べる機会を増やした。うつ病は再発すると本やネットでも読んでいたので、2020年に限らず2019年もこの時期(環境の変わり目)になると兄の様子を気にかけていた。

下降ルート突入(2020/4〜6月)

兄との連絡のやりとりの中で、しっかりご飯を食べられていないことを感じた。両親にも仕事の悩みを相談することが増えた。5月中旬、いつもの調子でラインをしている中で兄から「全てを投げ捨てて家に帰りたい」と私にラインが入っていた。妹である私にそう言ってくる意味を今回はしっかりと理解した。兄の限界がきたのだと思った。前回は慶應の部活のメンバーが見つけてくれたから、間に合ったものの、今回は一人暮らしで万が一のことがあった場合、誰も見つけてくれないという怖さもあったし、母にすぐ報告して、母は兄のもとへ行った。私はすぐ電話してとにかく話を聞いていたが、ずっと電話しているのもしんどそうだったので、途中で切った。2年前の精神状態と似ていて切ったあとも兄のことが不安でたまらなかった。自分自身も不安でどうにかなってしまいそうで、長男に泣きながら電話した。

休職(2020/6/3週目)

母が側にいるので少しの安心もあり、家族全員から毎日のように、元気か?大丈夫?といった連絡が来るのはかえってしんどいと思い、兄に連絡する頻度は減らした。ただ、兄につきっきりの母のことも心配だったので母に連絡する頻度を増やした。私にできることは、気持ちの落ち込んでいる兄のためにたくさん助けをだしている母のサポートをすることくらいしか思い浮かばなかった。母は、「今日は匠にこう思うって言ったけどよかったのかな、プレッシャーになってないかな。」という相談をたくさんしてきていて、自分の発言に毎日責任を感じているように思った。「いつも母は最善を尽くしてる」と言うようにして、母も沈んでしまわないようにしていた。

休職期間(2020/6月末〜9月末まで)

休職が決まってすぐのとき、一度茨城の兄の家に行った。兄も限界だったけど、兄とずっと一緒にいた母も精神的にギリギリだった。病院へ連れて行った選択が逆に兄のことを追い込んでしまったかもしれない、私のせいでとまた自分を責めていて、「匠の前でも泣いてしまう、もうお母さんもどうしたらいいのかわからない、大阪に戻るまでの間一度こっちに来てほしい」と母に言われた。兄と話しても聞こえないくらいの声量で、自分のこれからのことをどう考えても悪い方向にしか考えられておらず、ずっと頭を抱えているという状態だった。「お母さんが泣いてる姿見ても俺、涙もでてけえへんし感情が全然ない。もうやばいよなあ。」と母がいないときに言われたこともある。そういう時になんて声を掛けたらいいのか全然わからなかった。
大阪に戻ってきて、初めは会社に戻らなければと思っているように見えたが、休職期間にいろんなことを考えて、情報を目にして、自分にしかできないことがあると思ったのだと思う。これから兄がうつ病や自殺を試みたことがある当事者として何も隠さず発信活動をするっていうのは誰かにとってすごい意味のある事だと思う。兄はこの発信活動をしたいと言い出してから表情も行動力も変わった。精神的に追い込まれていたピークの頃からは想像できないくらい変わった。過去の事実を知らなかった人にまで公表するのってすごい覚悟も勇気もいると思うし、それでも自分だからこそできることだからとやろうとしている発信活動を、妹としてはできるだけサポートして応援したいと思う。それに今の兄は本当にいきいきしていて、正直それだけでとても嬉しい。

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