家族

当時の状況 – 家族 – 姉

大学生 時代

2018年3月から2019年3月までの記録

部活、私生活にて様子に変化(2018/3/1〜)

頻繁に連絡をとっていたわけではなかったので、特にわかりませんでした。

自殺未遂(2018/3/11)

私はこの時はもう実家を出ていたのですが、たまたまこの日は、実家に帰る用事がありました。実家につくと、匠が病院に運ばれたと連絡が入った後だったようで、何が何だかわからず、泣き崩れてしまった記憶があります。この時は安否も分からなかったので、無事でいてくれていることをただただ願っていました。どうしてこんなことにと思いました。

入院生活(関東労災病院)(2018/3/11〜22)

どのタイミングだったか忘れましたが、入院中に1人で会いに行きました。死にたい思いがあったことを本人の口から聞きました。苦しんでいる姿をみるのは本当に辛かったです。
何をしてもいいから、死ぬという選択だけは二度としないでほしいということを伝えました。家族として当たり前の感情だと思いますが、この事さえ、この時の匠に伝えていいものか悩みました。

大阪帰省(2018/3/23〜4初旬)

知人に、精神的な病気に詳しい方がいて、相談させてもらえたのが、私にとっても心の支えになりました。本人と母親も、直接病院のことなど相談に乗っていただきました。

再び神奈川へ(2018/4月初旬)

また自殺しようとするのではないかと心配でした。しかし、大阪にいるのもしんどいだろうとも思っていました。
家族から、匠が「まだ死にたいと思うことがある」と言っていたと聞き、匠が今後の人生、未来に希望も感じられていない様子が伺えました。そんな状態で過ごす日々は本当に苦しいだろうなと、考えるだけで辛かったです。

慶應病院入院(病院から大学へ通学)(2018/4/12〜5/6)

病院にいる間は少し安心できました。しかし、同時にこれから先、匠はずっと監視下にないと、家族は安心できないのだろうかと、不安にもなりました。認知行動療法を受けていたようで、この頃の匠とのラインのやりとりで、匠が少し自分を客観視できるようになっていたように思いました。(かなり沈んでいること、これからに絶望している様子に変わりはなかったですが)
いつ頃だったか、匠のことで、父と意見が違うことなどもあり、父と不仲になってしまった時がありました。しかし、その際長男(弟)に、「家族がこんな風になっていることを今の匠が知ったら自分のせいだともっと苦しむ、そんなことを匠は望んでいない」と諭され、感情的になった自分を反省しました。こういう時だからこそ、家族は極力冷静であるべきだと思いました。

チームへ復帰(2018/5/7)

部活の悩みも大きかったようなので、復帰すると聞いて大丈夫かと心配していました。私は無理して戻ることもないと思っていましたが、戻らない選択も、不安やしんどさが襲ってくるのだとも思いました。悩んでいた部活や就活から離れれば楽になるというものでもないので、本当に難しい問題だと思いました。苦しかったら逃げてもいいとよく言いますが、(逃げるという表現が適切ではないかもしれませんが)、なんというか、逃げるのも簡単じゃないし、逃げた先の方が更に苦しいということもあるんだなと思いました。「別にしんどかったら部活も大学もいつ辞めてもいいと思うし、今の居場所だけがすべてではないと思うよ」というようなことを伝えたと思います。匠が今までの道から外れることですべてが終わるみたいな考えだったので、少しでも別にそんなことはないと伝えたかったです。
(と伝えたものの、匠は本当に部活の仲間に恵まれており、この時に戻らせてもらえたことで、今生きることができていると思っています。)

その後の生活・活動(2018/5/7〜)

匠が周りの人に支えられながら、普段の生活を取り戻し、就職先もこの時点では本人の納得の行くところに決まり、ほんの何ヶ月か前に自殺未遂をしたことが嘘のようでしたが、常に不安はありました。この時は、もうこの出来事には、あまり触れてはいけないというような感じもありました。
また本人が、「このことを人に知られたら終わる。」と思っている様子だったので、家族も同じく人には話せないことを抱えているという感覚でした。
匠が、仲の良い友人には打ち明けられたりしたら、少しは楽になるだろうと思っていましたが、この時の匠にとっては、それがとてつもなく高いハードルだったようです。
家族にも、自分の友だちにも、もっと弱さを出せたらいいのにと思っていました。でもそれが出来ないからこれだけ苦しむのだろうなとも思いました。

引退・卒業(2018/11初旬〜2019/3)

弟の周りで支えて下さった方たちに感謝の気持ちでいっぱいでした。家族の関わりももちろん大事ですが、生きていくには、家族以外の社会の中で、支え、支えられ、どう生きていくかも大切だと思います。

社会人 時代

2020年3月から2020年9月までの記録

社会人生活、沈み始め(2020/3月初旬)

仕事がうまくいっていない話を聞くこともあり心配でしたが、話を聞いてもありきたりなことしか言えず、特に何もできませんでした。

下降ルート突入(2020/4〜6月)

様子(精神状態)が心配な状態であったのは間違いなかったですが、この時の匠の悩みの種であった仕事のことは、こちらが完全に把握できることではなかったので、病院にお世話になる方がよいのか、「気の持ちよう」で何とかできるレベルなのかの判断もつかなかったです。
ただ、匠の自殺未遂の時にもお世話になった知人に相談させてもらったところ、「本人に病院に行く意思がなければ行っても意味がない。」ということだったので、匠の状態が明らかに病院にお世話になった方がいいのでは?と思ってからも、本人が病院に行くことを嫌がっていたので、どうしたらいいものかと頭を悩ませました。

休職(2020/6/3週目)

ネットなどで鬱病と検索をかけると、「仕事に行けなくなり、病院に行くと鬱病と診断され、原因が分かりどこかほっとした」というような記事をいくつか見ることがありましたが、匠の場合は休職当初はそのような様子はありませんでした。休職なんてやってしまった‥終わった‥そこまでじゃなかった‥みたいな様子でした。それでも、あのまま頼りにできるところがなく、ただただ落ち込んで行くよりはいいと思っていました。
社会人になってからの時は、大学生時代の反省もあり、匠のことに関して家族内で意見や考えが違うことがあっても、意味のないぶつかりは出来るだけ避け、家族もそれぞれ苦しいのだから、支えられるようしたいと思っていましたし、支えてもらいました。

休職期間(2020/6月末〜9月末まで)

匠の今までの「こうでなければ」という凝り固まっていた考え方などが、少しずつ変わっていく様子をみて、しっかり休み、自分と向き合うことは大事なんだなと思いました。


全期間に渡って、自分が何かできると思わないように気をつけていました。
家族が苦しんでいるとどうにかしてあげたいという思いが強くなりますが、思いすぎると、必要以上に関わってしまったり、余計なことを言ってしまったりすると思いました。
匠が、話を聞いてほしい時に聞けるようするのが唯一できることだったと思います。
このことを意識していても、いらないアドバイスをしてしまったり、匠を傷つけるようなことも言ってしまったりしていたと思いますが、話を聞く時も、こちらの聞きたいタイミングを押し付けたり、無理強いしないように気をつけていました。

もう一つは、自分自身の生活を充実させ、楽しく過ごすようにしていました。自分に余裕があれば、より落ち着いて匠の話を聞けると思いましたし、自分も考えすぎてしんどくなってしまったら、自分の家庭にも迷惑をかけてしまうので、それだけはならないようにと気をつけていました。匠の状態が悪い時(いつ死んでもおかしくないなというくらい落ち込んでいる時など)は、どうしても、心配でそのことで頭がいっぱいになってしまいますが、考えてもどうにもならないことは出来るだけ考えず、自分の出来ることについてだけ考えるように気をつけました。

Share
Share this Post
Your URL copied