家族

当時の状況 – 家族 – 母

大学生 時代

2018年3月から2019年3月までの記録

部活、私生活にて様子に変化(2018/3/1〜)

就活で自分に自信を無くしている様子はラインのやり取りから感じていたが、そんなに深刻なものとは思っていなかった。

自殺未遂(2018/3/11)

大阪の自宅にて、当日の夕方に澤近くんから電話をもらい、匠が救急車で病院に運ばれたことを知る。事態を把握しないまま、病院に向かう準備をしている間に宇野くんから電話があり、匠が異物を飲んでいたことを知る。「どうして?」頭の中は真っ白だった。会社に連絡し休みをとり、新幹線で病院に向かった。元住吉駅には23時過ぎに着き、駅に権田さんが待っていてくださった。病室で匠と会い「なんで。」とわたし。「ごめん。」と匠。

入院生活(関東労災病院)(2018/3/11〜22)

匠の治療は内科を中心に進み、精神科の先生とも親子で面談した。ちょっとした気の迷いで片づけてしまいたい私の言葉を制して、先生から「自殺をしたいと思うのと、実際に行動に移すのには大きな差がある。大阪に家族みんながいるなら、大阪に帰ることを薦める。この病院には入院設備はないので、入院も可能な大きな病院を受診しなさい。」と言われる。15日から出勤するために夫に病院の付き添いを交代してもらい、いったん帰阪する。会社で上司に事情を説明すると、「今は息子さんのことを中心に考えなさい。仕事のことはこちらでなんとかするから。」と温かい言葉を頂く。匠の自殺未遂についてはまわりの方には伏せてもらうように上司にはお願いした。私の体調不良で急遽お休みを頂くことになったと同僚には伝えてもらう。匠が社会復帰するためには自殺未遂のことは伏せておいたほうがいいだろうと家族全員一致で決めた。3月24日に長女の結婚式を控えており、匠も出席したいとのことで、その前にわたしがもう一度病院に戻った。その間に慶應バスケ部のトレーナーの方が匠と話をしたいと連絡くださり、匠も同意したので、話す機会を得た。そこで少し勇気をもらえたのか、それまで会おうとしなかったバスケ部の同期のみなさんとも会う機会を帰阪前に得た。「もう一度みんなとバスケがしたい。」と匠の口から初めて聞いた。

大阪帰省(2018/3/23〜4初旬)

23日に二人で帰阪し、翌日の結婚式には家族みんなで出席できた。匠は治療の成果で、みんなと同じ食事を摂れた。その後の二次会にも兄弟で参加していた。長女の結婚式を家族みんなで祝えたことは、わたしにとってはとても嬉しいことだった。大学を辞めて大阪にいることも大学に戻ることも、匠には選べないように見えた。クラブなしの大学生活は考えられないが、その気力が沸いてこない様子も側にいて見てとれた。長女の旦那さんの友人で臨床心理を大学院で勉強中の方が結婚式出席のために筑波から大阪に戻ってきているので、一度話をしてみないかと長女から打診があり、3月27日に匠と会ってもらう。大阪で精神科を受診するための病院探しはなかなか進まず、途方に暮れて居たころだった。匠と話した後にわたしとも話してくださり、大学に必ずカウンセリングルームがあるはずだから、一度コンタクトを取るように勧められる。大阪にいて、どうやって横浜のカウンセリングルームと繋がれるのと疑心暗鬼だったが、調べてみるとスカイプで大阪に居ながらにしてカウンセリングを受けることができることがわかり、3月30日に自宅にて匠はカウンセリングを受ける。大学に戻ることも大阪に残ることも、どちらも選べないでいた匠にカウンセラーさんは1週間後にSFCのカウンセリングルームで会う約束をしてくださった。大学に戻ることが本当に今の匠にとって最良の決断なのかどうかわからなかったが、とにかく動きだすきっかけができたことに正直ほっとしている自分がいた。

再び神奈川へ(2018/4月初旬)

バスケ部の監督とヘッドコーチと会う約束を取り付け、4月1日に東京駅で匠と一緒に会う。明るく迎え入れてくださり、当時の部長から慶應義塾大学病院精神科の教授への紹介状を預かってきてくださっており、受け取る。夕方には以前病院にお越しくださったトレーナースタッフとも会う。匠は寮に戻り、大学の健康診断や履修届けを出す。私はそのまま千葉の親戚の家にとどまる。4月16日に病院の予約を取る。匠は企業の方から連絡があり、11日に就職活動のために会う。
その後、わたしに「もう寮にはもどれない。」と連絡が入る。すぐに西船橋の親戚の家に来るように伝える。また連絡が入り、「やっぱり寮に戻る。」と精神的に不安定な状態は電話口からも察することができ、とにかくわたしのもとに来るように伝える。顔を見るまで気が気ではなかった。わたしがすぐに病院に連絡を入れ、予約を取り直すと12日に予約がとれたので、翌日病院に向かう。

慶應病院入院(病院から大学へ通学)(2018/4/12〜5/6)

4月12日、教授の診察を受ける。「このまま入院しなさい。苦しいでしょう。」「大学にはここから通えばいい。」戸惑いながらも、他に選択肢はなく、匠はそのまま入院となる。病棟に行くと、長いもの、鋭利なものはすべて匠から病院側が預かるという。改めて、事の重大さを思い知る。
通学はわたしが同伴すること。医師も大丈夫と判断して、外出許可を出し、そのままホームから身を投げる人もいる。20歳前後で抗うつ剤を服用することで自殺念慮が高まる場合もあるので、休息のため眠りを助ける薬だけ処方しますとのこと。私は職場にとりあえずひと月の休職を申し出て、そのまま千葉にとどまる。毎日病院に面会に行く一方で、私個人でチームの同期の皆さんの試合観戦に行き、コミュニケーションを取っていた。
匠は認知行動療法を受ける。内定を得ることが匠の不安を少しでも取り除くことになるのではと、本人の意思を尊重し、就職に向けた面談にもわたしが現地まで同行する。なんとか一社内定をとりつけ、大阪勤務を希望してほしい旨を本人に伝える。そんな時に3月以前に参加していたインターン先から本選考の打診の連絡が匠に。しかし、それどころではなかった匠はエントリーシートを提出しておらず、先方が善処してくださるもその話はなかったことに。絶望のどん底にいるだろうに、わたしは千葉にいることしかできずにいたときに夜に長男が匠に電話をかけてくれ、眠れぬ夜を一緒に過ごしてくれた。本当に家族には私自身も救われた。
湘南藤沢に登校の際には私は匠と少し離れて同行し、湘南藤沢では図書館で過ごした。次の登校の際には本人が大丈夫というので新宿まで一緒に行き、わたしが電車に一緒に乗らず、新宿で半日過ごした。入院中、歌を歌って気持ちを発散してもらおうと、カラオケに連れ出したこともある。決して楽しそうではないが歌ってはいた。病院内のスタバでお茶をしたり、病院の周りを散歩したりもした。
5月初めに新病棟に科が移転するので、この機会に退院してみてはどうかと病院側から言われた。退院して寮に戻ることにしてから、外出許可を取り匠と築地まで出向いた。そこから銀座、日比谷、皇居を回って迎賓館を超え、病院まで歩いて帰った。途中の公園でバスケットボールをする人を見かけ、匠が興味を持った時には少しほっとした。そして、5月2日退院。匠と次女と夫と4人で自由が丘にて昼食をとり、その後寮へ。

チームへ復帰(2018/5/7)

退院後、匠が寮に戻ってからも、わたしはしばらく千葉にとどまる。匠は就職活動を続けており、東京に来るタイミングで昼ご飯を一緒に食べたりしていた。

その後の生活・活動(2018/5/7〜)

5月10日の夜行バスで大阪に戻る。5月17日から職場に復帰する。その後はLINEで連絡を取り合う。5月25日、慶関戦で大阪に来る際には実家に泊まる匠を迎える。慶関戦では地元の昔からの知り合いとも会い、平静を装う匠が痛々しかったと感じていた。6月初めに大手企業の内定を頂いた頃から、匠の気持ちが前向きになったように感じる。7月7日に早慶戦を観戦に家族で東京に向かう。3月の頃のことを思うと、匠がその場にいてプレーしていることが奇跡のことのように感じる。周りの人達には感謝しかない。

引退・卒業(2018/11初旬〜2019/3)

引退試合となった試合後、選手とその家族で渋谷にて親睦会をもった。同期の保護者の方にさえ、詳しい事情は話せないまま、聞かれないまま、クラブの活動は終わった。卒業式では、数名の保護者の方と次の早慶戦で会えることが楽しみだと話していた。

社会人 時代

2020年3月から2020年9月までの記録

社会人生活、沈み始め(2020/3月初旬)

3月初めにわたしの仕事の愚痴を聞いてもらうがきっかけで匠と電話で話し、2時間近く話していた。夜、眠れていない様子で少し心配になっている。数日すると、逆に眠気が強くなり、朝、布団から出る足が非常に重いとラインにあった。コロナが気になり始めた時期だったが、3月末に私の母と一緒に匠の家に行く計画を話した。コロナが東京で増え始めたため、大阪発千葉着の高速バスで移動し、3月末に匠と会いました。確かに仕事は大変そうだったが、本人からも頑張るという言葉をもらい、帰阪した。

下降ルート突入(2020/4〜6月)

4月半ばには在宅勤務が増え、仕事で悩みながらも職場の先輩に相談できずに悩んでいる様子だった。会社のバスケ部の活動も休止になり、つくば在住在勤ということもあり、東京近郊の友だちとも会えず、孤立していく様子でもあった。4月後半には長電話することが増えた。5月に入り、自分なりに気分転換をはかる努力はしていたように見えたが、私に心配かけまいと頑張っていたのだと思う。5月20日の電話で「結局、在宅でも一日何もせんかった。もう辞めたい。何もかもわからない。頭が回らない。」と電話で話す。危機感を感じた私は家族と相談し、なるべく早く匠に会いに行くことにする。次の日に職場の上司に事態を話すと、大学時代のことを知ってくださっていたので、「一刻も早く、息子さんのところに行ったほうがいい。今日から休みなさい。」と言ってくださり、その日の夕方には私はつくばの研究学園駅に着いていた。
次の日から、しっかり朝食を摂ってもらい、会社に送り出す日々が始まった。会社から帰ってきた匠の口からは自分の無能さと会社に迷惑をかけているといった言葉ばかり。会社の産業医さんやカウンセラーさんを訪ねてみてはと提案してみても、そもそも大学時代のうつ病を患ったことを公にしないまま入社していたこともあり、そのことが明らかになることを恐れている様子だった。また、病気のせいで仕事ができないとは認めたくない自分もいたと思う。
会社の方には母親が心配して、つくばに来ていることはひた隠しにしていた。わたしにも大丈夫だから家に帰ってほしい、わたしに仕事を休ませて迷惑をかけ続けたくないと言ってきてもいた。6月になり、会社のクラブの方と集まる機会もあり、参加はするものの、暗い表情しか出せない自分を心配してくださる先輩たちにも、自分の今の状況をうまく説明できずにいた様子だった。

休職(2020/6/3週目)

わたしがつくば市の精神衛生に関する相談所に電話をすると、やはりカルテのある以前入院した病院に相談することを薦めていただいた。本人には会社に行けなくなったら、病院に行こうと話していた。
匠の異変に気が付き始めた大学時代のバスケ部の同期や大学の同級生がつくばに遊びに来るというので、私は千葉の船橋の親戚の家にいったん移動した。私がいることで、逆に本人を追い詰めているのかもしれないとも考えていた。その時はしばらく千葉にとどまって、匠が会社に通えるようであれば大阪に戻ろうと考えていたが、月曜日に匠は会社に行けなくなった。
伝えていた通り病院に行こうと匠に言い、観念したのか、匠も同意。心配ではあったが、東京の病院には匠はつくばから、わたしは千葉から向かうことにしました。
次の日、匠は時間通り病院に1人で来て受診。先生からは「今、彼は充電1%の状態です。すぐに休職することをお勧めします。」と3か月の休職を求める診断書を提示していただく。匠は絶望を感じたかもしれないが、わたしは救われた思いだった。大阪に戻って休職期間を過ごすことを決めましたが、大阪での病院選びに迷っていた際に、オンラインで診察を受けられないかとお聞きしたところ、大丈夫とのことでした。また、初診してくださった先生が大学時代にお世話になっていた先生に繋いでくだされ、オンライン診察は大学時代を知っている先生にして頂くことになり、これに関してもわたしは安心感を持てました。

休職期間(2020/6月末〜9月末まで)

6月30日午後に東京で診察を受け、そのまま大阪へ向かう。先生から、決して無理のない程度に運動や読書はしてもよいと言われていたので、本人は家に引きこもることなく、ジムに通ったり、読書できる場所を自分で見つけているようだったので、少し安心した。わたしも職場に戻った。遅い時間までの勤務だった特別養護老人ホームから、夕方までの勤務のデイサービスに移動を上司から提案して頂いた。とても有難いと思った。仕事をしながら、匠を見守っていきたいと思っていた。

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