家族

当時の状況 – 家族 – 父

大学生 時代

2018年3月から2019年3月までの記録

部活、私生活にて様子に変化(2018/3/1〜)

2月の後半にインターンシップや就活のことで連絡を取っていた。色々と悩んでいるようで、就活と部活の両立が大変そうだなーと感じたが、頑張っているのだと思っていた。
3月に入って、就活でかなりきつそうだと聞いたので、乗れる相談には乗って少しは気を楽にできればと思っていた。

自殺未遂(2018/3/11)

妻から電話が来て、「匠が倒れて、救急車で病院に運ばれた。とチームメイトから連絡がきた。詳しいことはわからない。」と伝えられた。発見されたときの状況を聞いて、「どうして?」と状況が理解できなかったが、それが事故であると信じていた。
そんなに就活で悩んでいたのか、それとも他に何か理由があるのか全くわからなかった。私自身説明がつかず、認めたくもなかったのだと思う。同期やスタッフのみなさんのご対応に心から感謝がこみ上げ、すぐに行きたいとも思っていた。

入院生活(関東労災病院)(2018/3/11〜22)

11~13日に家内が病院に付き添い、14日朝に妻と交代。15日夜までの2日間だけだが、それでも一緒に居れるだけで良かった。病室に到着後、匠は想像していたより落ち着いていたし元気そうでひとまず安心した。何を話したかは覚えていないが、できるだけ明るく接するようにしたと思う。この時点でも、本当に自殺しようと思ったのかどうか、信じられない思いが強く、本人に聞きたかったが聞けなかった。
謝るばかりの匠に、たくさんではないが他愛もない話を探して声をかけた。今は内蔵の状態を回復させるために内科での入院であるが、それが落ち着けば精神科を受診することを進められたと妻から聞いていた。私もまだ半信半疑だったが、劇物を飲んだ事実はあった。私自身、鬱でなければいいなという思いが強かったかもしれない。
次の日の昼前に話していた時、ここで自分の気持ちをいろいろと話してくれた。
これからの不安や、部活のことや学校のこと、就活のことなど、極力黙って聞いてはいた。「これからお父さんはどうしてほしい?」と聞かれたが「匠が笑顔になれて、気持ちが楽になれるなら、それが一番嬉しいよ」と言うことしかできなかった。
どのタイミングだか記憶は定かではないが、「死ぬ気やったんか?」と聞いてしまうも、匠は「楽になりたかった」と答えていた。辛い質問をしてしまい、その上、私を傷付けまいと言葉を選んでくれた匠の気持ちに自己嫌悪に落ちていた。
しかし、何が原因でそうなったのかということは相変わらずわからなかった。退院予定が3月23日になり、私が大阪に帰った後も姉兄が仕事を調整し順番に匠についてくれ、様子を知らせてくれた。入院中に部活のスタッフの方や同期のメンバーが面会に来てくださることに対し、匠も会うことを拒絶しないで会えたことに少し安心した。
それと同時に、周囲にこれだけ親身になって寄り添ってくれる方がいたのに、どうしてそういった行動を起こしてしまったのかわからなくなっていた。

大阪帰省(2018/3/23〜4初旬)

3月23日に退院し、少し前進できたような気はしていたが、不安な思いも絶えずよぎっていた。今までは、「退院して姉の結婚式に出る」というように、とりあえず目の前の目標があったので、今後ついての不安は、まだ押えられているのではいかと思っていた。結婚式が終わったあとは今後の不安な気持ちに悩まされるのではないかとも思っていた。
そんなことを思いながら家に帰ってきた後も、いつも通り匠と接するように心がけた。匠にとっては人前に出ることはとてもしんどかったのかもしれないが、姉の結婚を家族みんなで祝えたことが何より嬉しかった。その後の生活の中で「もう大学へは戻れない、戻りたくない、仕事を探したい」と言っていて、混乱しているかもしれない現状で、本人の気持ちをどこまで尊重するべきなのかはわからなかった。
4月に入り、あまり方向性を決められないまま、退学と休学の両方の書類を用意していた。匠は落ち着いていることもあれば不安定なこともあり、感情の起伏が激しかった。この時、私はただ「大丈夫」と声をかけることしかできなかった。
そんな中、慶應大学オンラインで心の相談をできる制度があることを知り、匠はその制度を利用することに。また、4月1日に、部活の監督とヘッドコーチにお会いするために親子3人で東京へ行き、「なーに、はしかにかかったと思えばいいんですよ」、「同じ病気なんだから時間がかかっても直せばいいよね。」という言葉をいただけた。私はこの言葉に救われた気がしていた。
やはり、ここまで追い込まれた原因が何なのかしっくりこないが、まずはそこから離れることが大切だとは思っていた。また、根本的な問題を解決しないと、また心の底から楽しんで生活できないだろうと言うことも感じていた。
学校を退学するのか、休学するのか、まずは大きな決断を迫られていたし、私としては、あとは卒論だけであり、現状と今後のことを考えると休学がいいと思ったが、本人が最も納得できる選択をできればいいとも思っていた。ただ、こんな選択を今の本人に委ねてしまっていいのかという想いもあった。
その中で、匠は大学健康診断や就職活動をするといい、嬉しい気持ちもありつつ不安な気持ちもあった。

再び神奈川へ(2018/4月初旬)

心配ではあったが、明るく送り出した。まだ約1ヶ月しかたっていなかったが、4月9日に妻と横浜へ。寮にも戻れたし、10日は授業にも出られたようだがかなりしんどそうな様子だったという。そして4月12日、慶應病院で受診、即入院が決まる。私は専門のお医者様に診ていただけたこと、そして一人にはならないことで少し安心した。「無理しなくていいよ」とは言うものの、実際は「頑張らないと」と感じさせるプレッシャーになっていたかもしれないとは思っていた。

慶應病院入院(病院から大学へ通学)(2018/4/12〜5/6)

4月14日に電話をしたが、「何を話したらいいかわからないから何も言えない」と言っていた。私が一方的に話をしたように思う。その後、16日に企業面接があるといい、病院から行く際には往復の付添が必要だと言われていたので急遽、東京に行くことに。病院で会って、帰った後に自分の情けなさを嘆いていたが、何が正解なのかわからないので、”無理するな”と”励ましの言葉”を繰り返していた。
この時点で、就活に関してかなり不安があるようなので、そこをクリアすると少しでも前向きになれるのではないかと思っていた。いろいろ思うところはあったが、今は本人の自信に繋がってくれたらと祈るばかりだった。16日夜、面接を受けることができ、そして無事内定。このことで少しでも自信を取り戻してくれればと思っていた。
このころは、精神科に入院したことに対するストレスがかなり見えたし、訴えていたので、もう退院させてあげたいと思っていた。その後も苦しいながらも授業にも出て、就活関係もいろいろあり、気持ちの浮き沈みがあるが、何とか元の生活に戻ろうとしていた。内定はもらってほっとしているが、大手じゃないことが引っかかっているように感じるので、まだまだこれからでもエントリーシート出せるから受けたらいいのではないかと思っていた。
今後、チャレンジしなかったことで「あの時やっとけばよかった」と後悔に繋がり、また沈むことになるのではないかとも思えた。就活が今回の原因なら、向き合ったほうがいいのではないかと。
しかし、それは鬱状態では無い時のことで、今の匠に言うことではないのではないか、というのが家族の意見であった。やっぱり何が正解なのかわからない。もしプライドが崩れ、必要以上に自信喪失しているなら、少しでも自信回復できるかもしれないことは、やらないよりやったほうが良いのではないかという思いが私にはあった。しかし、今思えばこれも鬱状態でチャレンジするにはあまりにもリスキーな選択でもあった。
正直、今回のことが起こる以前から匠が将来何をしたいのか、何を目指しているのかが全くわからなかった。そういうものがあるのか無いのかさえわからなかった。その中で、匠は大手企業に就職するということがひとつの目標ならば、そこをクリアできれば落ちつけるのではないかとも思った。
そんな中、5月2日に退院。3日、日吉駅での別れ際にいろいろ話をして、「就職も出会いだから、「おいで」って言ってくれたところでがんばるのがいいのだと思う。でももし大手がまだ気になるなら、まだ受けられるところがあるだろうからエントリーシートを出すのも有りやと思うよ」ということを伝えた。「やれっていうことじゃないよ」ということも付け加えて。この一言がプレッシャーになったのかどうかは私にはわからなかった。

チームへ復帰(2018/5/7)

部活へ戻ることへの恐怖をよく口にしていたが、後輩たちも復帰を喜んでくれたようで、匠もひとまず安心しているようだった。匠のことを入院時も支えてくれて、戻りやすい環境を整えてくれた同期のみんなへの感謝は表現できないほどのものであった。家族では支えられない部分を支えていただき、みなさんがいなければ、匠の今はなかったとも思う。

その後の生活・活動(2018/5/7〜)

GWが明け、徐々に元の生活に戻るように頑張っている連絡が送られてくる。相変わらず「無理するなよ」と「励まし」を繰り返していた。心配ではあったが、3週間ほどたてば関西大学との定期戦で大阪に帰ってくる予定もあった。
定期戦では当時からの知り合いに、姿を消していた期間のことを聞かれることが不安だったようだが、私としては、コートを走る匠の姿を見ることは夢のようだったし、安心もできた。
ここまでの期間でも就職活動は続けていたようで、この頃もいろいろと伝えられることを伝えていた。これも良かったのかどうかはわからないが、その時は相談にしっかり答えてやろうと思っていた。
面接が始まり、6月初めに大手企業から内定をいただくことができ、匠もホッとしたのではないかと思っていた。これで本当に就活から解放されるとも思っていた。夏に少しだけ帰省してきたが、心のどこかで心配はしているのだが、元気そうな様子を見て安心した。
私としては、ずっと支え続けてくれた同期のメンバーには本当に感謝しかなかった。

引退・卒業(2018/11初旬〜2019/3)

春先は匠がこの場所で、試合をしているなんて想像もできなかった。感謝してもしきれない。保護者の方たちもずっと私たちを支えてくださり、たくさん力をいただけていた。そして、無事卒業式も迎えられている姿を見た時は心底良かったと感じていた。

社会人 時代

2020年3月から2020年9月までの記録

社会人生活、沈み始め(2020/3月初旬)

2月の終わりに兄の結婚式で大阪に帰ってくる予定だったが、仕事が大変そうだった。どんな仕事をしているかは全く分からないが、普通に新人がぶつかるバードルだと思っていた。おそらく人に頼ることが苦手で、3月初旬はかなりしんどそうになってもいた。
このあたりから新型コロナウイルスの影響も徐々に出始めている様子だった。また、妻が月末に様子を見に行き、その様子を伝えてくれていた。私としては「無理せずに!しんどくなったら電話して来いよ!」と伝えていた。

下降ルート突入(2020/4〜6月)

新年度に入り、新体制やコロナの影響もあり、益々仕事をうまく回せなくなっているようだった。明らかに自信喪失してきているのも感じていた。テレワークが始まり、人とも接触できず、家に一人で悶々と仕事をしている様子。GWも帰れず、家族でオンライン飲み。家族と喋れたことで、少しは気晴らしになったかとは思ったが、心はかなり沈んできているようだった。
5月半ばにはかなりまずい状況に陥り思考停止状態になっていると妻から聞き、すぐに行ったほうが良いと夫婦で話していた。妻は職場に事情を説明、相談し、即日茨城に向かうことができた。5月21日から母親がいる生活になって、私も少し安心できた。
その後、LINEで謝ってくることが増えていた。完全に自信喪失状態だが、受診は拒否しているようだった。1ヶ月が過ぎ、母親が家にいることが負担になってきているようで、妻は一度、匠の家から離れることを決断。匠はまた一人暮らしに戻ったが、次の出社日には会社を休んでいた。

休職(2020/6/3週目)

この1か月、1度行って直接話したかったが、どうも私が行くと良くない影響を与えそうなのか、妻は私に任せてと一人で頑張ってくれた。
私はこの間、妻の連絡だけを情報として、あとはいろいろと想像の中で考えたり、ネットで情報収集をしていた。
匠は会社に行けなったということもあり、もう休職させたほうがいいと思っていた。けれど匠はどうしたいのかもわからず、直接話せない苦しさもあった。その後、受診することとなり、うつ病の診断が出て3か月の休職が決まる。匠は認めたくないようで、受診しなければよかったと言っていたようだった。私としては、とりあえず毎日会社に行かなければならない状況から解放されてホッとした。
この時点でも「直接連絡は取らないほうがいい」「お父さんの役割は違うところにある」と家族に言われ、私から連絡を取ることはしばらくしなかった。大阪に帰ってくる日が次の受診が終わった後の30日に決まったが様々な不安はあった。

休職期間(2020/6月末〜9月末まで)

ゆっくり休めばいいと思っていたし、家にいることが安心でもあった。話したくなったら話すだろうと、家の家事をやってもらったり、仕事を手伝ってもらったりしたが、基本好きにさせた。

自宅での生活中は普通に生活していたが、家にいるときはほとんど部屋にこもって何をしているのかわからなかった。どうもパソコンを見ているようだと妻が言うが、何をしているのか全くわからなかった。診察に関してはオンラインでできたので、少しは安心していた。
元の生活に徐々に慣らすことも考えて、8月27日につくばに戻ることになった。以前、「多分退職する。次のことも考えている。勉強もしている。」と言っていたが、具体的に何も聞いていなかったので心配ではあった。
休職期間の延長ということもできるのではないかとも考えていた。退職する場合、8月末につくばに戻って何をするのか、すぐに退職して帰ってくるのか、ほとんど何も聞かされていない私は、一人でつくばに戻って大丈夫なのかと思っていた。何も解決していない。
8月27日となり、新大阪駅まで車で送っていった。その道中、自身が考えている事を話し始め、その内容には正直驚いた。また、こんなに熱く自分のやりたいことを話してくれたのは初めてだった。
それを考え、形作るのに毎日パソコンに向かったり本を読んだりしていたのだとここで初めて知った。ここまで自分と向き合えているのなら一人で茨城に行かせても全く心配ないと思えたし、私自身も少し安心した。

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