私自身

当時の状況 – 本人(原匠)

大学生 時代

2018年3月から2019年3月までの記録

部活、私生活にて様子に変化(2018/3/1〜)

精神的に沈んでいった背景には一言では言い表せない様々な要因がありました。失敗よりもむしろ、学業や部活動の中での成功体験や様々な経験が精神を追い込む価値観の形成に繋がっていたのだろうと今では思います。
そんな私が自殺未遂に至るまでの話をnoteのマガジンにまとめていますので、お時間のある方は是非ご一読ください。

「学生時代~私が日本一周を始めるまでのこと~」

自殺未遂(2018/3/11)

2018年3月11日、私は自らの命を絶とうとしました。所属していた部活動内での悩みや将来への不安、経済的な不安から自身の精神を保つことができなくなり、どうにか楽になりたいという想いでした。
私の父は自営業で働いており、家庭の経済状況は不安定でした。加えて兄妹は4人と決して裕福な家庭でもありませんでした。進学についても高校は公立校、大学は国公立大学への進学が我が家の家族ルールのようなものとしてありました。そういった状況の中、当時はバスケで秀でたものがあったということもあり、大学の進学についても私学校で下宿という最もお金のかかる選択を家族はさせてくれました。間違いなく兄妹の中でも1番お金がかかった息子だったと思います。そういった背景もあり「就活は失敗できない。良い待遇の企業へ勤めて経済的にも恩返しをするのが最低限の自分の責任だ。」と考えていました。これは大学受験について家族会議をしていた際にも生まれた考えでもありました。

その一方で、バスケ部での活動にも前向きに取り組むことが出来ていませんでした。当時の様々な出来事から生まれたチームへの不信感。それを誰かに伝えることもできなかった状況。好きで取り組んでいたバスケに対してもこのような感情を抱いている中、就職のことについてや自身が今後やりたいことについて考える余裕もありませんでした。
しかし、「就活は失敗できない。チームに対しても自身の責任は全うしなきゃいけない。やりたいとかやりたくないとかそういった問題じゃない。」という想いも同時にありました。自身の精神が崩れ始め、いよいよ夜も寝付けなくなり気づけば朝、何とか気力を振り絞って朝6時に練習に向かうというような状況でした。もちろん、このような状態で動けるはずもなく、練習では後輩に吹っ飛ばされる始末。チームメイトもさすがに様子がおかしいと気づいていたと思います。この時点で「さすがにもうやばいな。」という感覚はすでにありました。

ある朝、動く気力が全く出ず、予定していた就職活動の予定も無断欠席してしまいました。
「もう、頑張れないな。」と完全に希望も生きていく理由も見失い、自身の責任を果たせる自信も失った時、私は自殺を試みていました。

入院生活(関東労災病院)(2018/3/11〜22)

入院当初は自身で自身の状況を全く理解できませんでした。異物を飲んでしまっていたため、ずっと嘔吐を繰り返すという状況でしたし、実際何を吐いているのかもよくわかりませんでした。
完全に喉も潰してしまい、食事は10日間ほど食べることが出来ず、点滴のみでの生活。必死に鍛え上げてきた体もみるみる小さくなっていき、ものの数日で約10kg痩せてしまいました。
この時のことを思い出すと、未だに少し苦しくなることもあります。自分が積み上げてきたものを一瞬にして失っていくような感覚。「お前のやってきたことは間違いだったんだよ。」と言われているような感覚。
交代でお見舞いに来てくれていた家族に対しての申し訳ない気持ち。いっそのこと死んでしまった方が楽だったんじゃないかなと毎日思っていました。
自身の状況が認められず、チームの同期がお見舞いにきてくれた時も必死に、いつも通りを装おうとしました。「自分は普通だよ!おかしくないから心配しないでね!(頼むからいつも通り接してくれ。)」と言わんばかりに空元気で話していたと思います。その空元気な感じがすでにいつもの自分と少し違っていたと今では思いますが。
やっとのことで食事を食べ始められ、最初に食べたのはほぼ汁状のおかゆ。ただ、約2週間ぶりのご飯ということもあり衝撃的に美味しく感じていました。翌日にコーンスープを飲んだ時の感動は今でも忘れられません。
そんなこんなで体調は回復し一先ず大阪へ戻り、休養をいただくことになりました。

大阪帰省(2018/3/23〜4初旬)

大阪帰省後、すぐに姉の結婚式がありました。とんでもない時期に、とんでもないことをしてしまったなと申し訳ない気持ちを持ちながらも、何とか結婚式に出席しました。兄妹でも初の結婚式でした。式中に流れる映像や、姉の言葉、父や母の言葉。あんなどん底の状態の私でも涙せずにはいられない状況でしたし、自身も前を向いて頑張らないと、と思わせてもらえた式でした。
しかし、そんな簡単に突破できるような状態でもなく、翌日からはまた地獄のような日々が始まります。
「向こうはどうゆう状況なんだろうな。自身がやってしまったことが広まって、問題になってしまっているのだろうな。俺の居場所はほんとに無くなってしまっているんだろうな。でもそれならどうする?チームに戻る?こんな自分を受け入れてもらえるはずがないだろう。じゃあ大学にだけ戻る?チームが活動をしているのを横目にあそこに戻るのもそれはそれで地獄のような状態だよな。じゃあ学校を辞める?多額の借金までしてここで大学を辞めるなんてそんな選択肢あるわけないだろ。どの道も地獄だな。」と何を考えるのも辛かったです。

そんな中でも、「もしかしたら、チームメイトも普通に受け入れてくれるかもしれない。また、以前みたいにチームメイトとも、友人とも普通に生活ができるかもしれない!」と無理くりポジティブに考えたりもしていました。この瞬間は少し気持ちが楽になるのですが、マイナスな面はいくらでも出てくるのでまた負のスパイラルに入ります。「部活に戻ったところで、これだけブランクのある自分がやれるはずもない。4年目のこの時期でまた0からスタートすることも考えられない。あれだけ必死に積み上げてきて何とかあのレベルの環境で戦えていたのに、もう通用するわけがない。また、あれだけハードな練習、生活に戻れる自信もない。」といったループを無限に繰り返していたという状況でした。うつ病の人は浮き沈みが激しくなる、という部分を見事に体現していたと今では思います。
とは言うものの、少なくとも大学には戻らないといけないと覚悟を決め、4月初旬に行われる健康診断をきっかけに一先ず神奈川へ戻りました。

再び神奈川へ(2018/4月初旬)

神奈川に戻ってきたものの、毎日色々なものに怯えながら過ごす毎日でした。人と会うのも怖かったです。そんな状態で寮で生活することもさすがに辛く、その日は寮に帰らず千葉に住む従兄弟の家に泊めていただくことになりました。この時は母が従兄弟の家で待機しているという状態であり、その後、慶應病院の精神科に受診すると言う流れになりました。

慶應病院入院(病院から大学へ通学)(2018/4/12〜5/6)

診察時も、私は何でこんなところにいるんだ、そんなはずがないという思いがありましたが、現状は専門家の先生に診ていただくしか方法はありませんでした。寮での生活も息苦しい、従兄弟の家に泊まり続けるのも気を遣って辛い、一人暮らしをするにしても生活面での不安や家族への経済的負担等を考えると、その選択肢も考えられませんでした。そこで先生が、「じゃあ病院に住んで、ここから学校に通ってみますか?」と言うまさかの選択肢を提示してくださいました。もちろん、この提案にも抵抗感はありましたが、諸々の状況を考えると自身も、家族も最も安心できる選択肢であったことは間違いなく、病院へ入院をすることとなりました。

入院後の生活についても、結局は息苦しい生活でした。入院初日、最初にあったのは手荷物検査。自身が自傷行為をしたと言うこともあり、ズボンの紐やベルトなど、自傷行為に繋がる可能性のあるものは全て没収されました。この時は虚しいというか、何というか、何とも言えない感情でした。
何とか大学へは通い始めましたが、この時も正直めちゃくちゃ怖かったです。ゼミのメンバーに何か言われないか、噂が広がっているのではないか、そんなことを考えながら授業に向かいました。しかし、想像していた状況とは異なっており、今の自身の状況(自傷行為をしたことに加え休部中)を知っている人がいませんでした。あれ、なんか思ってたのとは違うけどとりあえず助かった。そんなことを考えながら4月中は細々とゼミに通っていました。大学に行くためには誰かしらの同行が必要であり、母が大学の最寄り駅まで付いてきてくれたりもしていました。ただ、病院に帰る時も誰かに会ってしまわないか、こんな状況を見られると困るな。そんなことを常に考えていました。
当時、母が長期休暇をいただいて、千葉の従兄弟の家に住み込み、毎日病院に様子を見にきてくれていました。話し相手が毎日いるという安心感はありましたが、その分申し訳なさもありました。

外の情報を何も入れたくなかったということもあり、3月の段階では携帯のSNS系のアプリは全て消去していました。しかし4月の途中の段階あたりで外の様子が気になり始めたということもあり、少しずつですが再度利用し始めました。大学バスケの情報を発信しているアカウントから、慶應バスケ部の試合結果や試合速報などの情報を手に入れていました。敗戦が続く状況を見た時に、自分は何をやっているんだろうなという気持ちにもなっていました。ただ、自分が今あそこに戻ってもチームへの負担を増やすだけで、何も持たらすことは出来ないな。戻らない方がいいよなといった想いでした。
そんなことを言いつつも、やはり今後のことも色々なことを考えた上で自分にはバスケ部に戻るしか選択肢はなかったし、同期に戻りたい旨を伝えました。体調も回復してきているという医師の判断もあり、ゴールデンウィーク中の5月3日からチームに復帰させていただくこととなりました。

チームへ復帰(2018/5/7)

5月3日、練習前、会議室にてミーティングの時間をいただき、チームのメンバーに全力で謝罪をした上で、もう一度チームの一員としてやらせて欲しいという気持ちを伝えました。
どういった反応をされるのだろう、本当に戻れるのだろうか、そんな不安がありましたが完全に自分の思い過ごしでした。
チームの同期も後輩たちも盛大な拍手と共に私のことを歓迎してくれました。こんな最高なメンバーのことを何で信じることができていなかったんだろうと、とても恥ずかしい気持ちになったことを今でも覚えています。もう一度やり直せるかもしれない。そんなことを思わせてくれた瞬間でした。

その後の生活・活動(2018/5/7〜)

復帰後の生活ももちろん過酷でした。丸々2ヶ月ほど、全く運動をせずにいた中で、あの環境に戻ることは身体的にも精神的にも大変であることは間違いありません。復帰後は、雑巾係でも何でも最底辺からやっていこう。そんな気持ちでした。しかし、当時のヘッドコーチは「原をAチームに入れろ。」と私を以前と全く同じ環境にそのまま入れる選択をして下さいました。これには私の同期も驚いた様子でしたし、実際私自身が一番驚いていました。下級生も口には出していませんでしたが、さすがに思う所もあったのではないかと思います。
ただ、この状況で「いや、僕はまだちょっと、、」なんていうはずもなく、与えていただいた環境で全力でやる。それしかありませんでした。
復帰後最初の公式戦は関西大学との定期戦でした。この年は大阪にある関西大学のキャンパスでの試合であり、関西大学には高校時代までの友人や後輩もいました。1戦目からスターターとして出場し、何とか勝利を収めることができました。この時、少しばかり安心感が芽生えたことを覚えています。その後のレセプション時に当時の高校時代からの友人から、「匠が部活を辞めたっていう噂あってんで。」というような話を受けました。やっぱりかと思いながら何となく理由をつけて、酒を飲んでできるだけ誤魔化していました。その時に、周りにいたチームの同期のちょっと引き釣り気味な表情が印象的だったのを覚えています。
その後に韓国遠征を経て、7月には私自身もチームとしても思い入れの強い早慶戦が控えていました。
昨年度に相当悔しい思いをしてはいましたがこの時の私の感情を正直に言うと、「またこの舞台に立ててよかった。」というものでした。そこに立っていることだけでどこか満足している自分がいましたし、昨年ほど強い闘志が自分にないことは自分自身が1番気づいていました。

ただでさえ格上の早稲田大学、同じポジションには高校時代から名を馳せ、大学入学後も着実にステップアップをしていっている選手でした。私自身、彼のバスケットボールに対する姿勢にはリスペクトをしている部分もありました。そんな相手に、このようなメンタリティの僕が対等に戦えるはずもなく、文字通りボコボコにされました。チームとしても大差をつけられての敗北。この時、とてつもなく落ち込んでいる同期やチームメイトの姿を見て、久しぶりに心の底から「悔しい」という気持ちが生まれました。試合後控え室代わりのサブコートで涙が溢れ出てきました。必死に一緒に走り続けてきた同期に対しても自分は何も返せていない。「自分は今まで何をやっていたんだろう」という気持ちが溢れ、心の底から悔しいという感覚は当時の自分を思い出させてくれたような気もしました。

引退・卒業(2018/11初旬〜2019/3)

その後は、夏合宿を経て秋のリーグ戦開幕。当初の下馬評を大きく覆し、慶應バスケ部は最後の最後まで上位争いに食い込んでいくことができました。あと一歩、自分たちの掲げた目標には届きませんでしたが、自分たちが目指したチームにはなれたのではないか。そんな引退の瞬間でした。
引退後も、残りの大学生活を謳歌し、最高の形で卒業式を迎えることができたと思います。この時は、少し不安は残るものの、もう自身は2度とうつ病にかかることはないだろうとどこかこの病気のことを甘く見ていた部分があったと思います。

社会人 時代

2020年3月から2020年9月までの記録

社会人生活、沈み始め(2020/3月初旬)

大学時代にあれだけ大変な状況下で奇跡的に頂けた内定先。入社後は与えられた仕事を地道にこなそう。特段目立ちもせずに平和に生きられたらそれでいい。むしろ変に目立って、自身の過去を掘り返されることが最も怖いと考えていました。しかし、実際のところは業務についてもあまり身が入らず、自分はこの仕事を40年続けていくのだろうか。そんな気持ちも少なからず持ってもいました。
そのような気持ちを抱いていた際に、いくつかのトラブルがのしかかり、業務内容としても自身にとって負担になるものが増えていきました。

下降ルート突入(2020/4〜6月)

2年目に入る段階。ちょうど新型コロナウイルスの影響が本格的に出てき始めたところでした。
どの業界も同じであったと思いますが、いろいろな部分でイレギュラーな対応が求められ、仕事の様相も一変しました。この時、自分自身が少し沈んでいってしまっているなという感覚を覚えた時、2年前の当時のことを思い出してしまいました。完全に自分にとってはトラウマでしたし、あんな状態に二度と戻りたくない。ただその一心で生活をしていました。
しかし、その思いが強ければ強いほど、その方向へ向かっていってしまうもので、自身は日を追うごとにさらに疲弊していってしまいました。
私と連絡を取っている際、その様子に違和感を感じた母は当時のこともあり、すぐ私の所へ飛んできました。その後も約1ヶ月ほど一緒に生活をしており、食事や家事等の手伝いをしてくれていました。
ただ、その状況さえも以前に迷惑をかけてしまった申し訳なさを再燃させてしまい、自分自身が非常に情けない気持ちになってしまっていました。
仕事を休むわけにはいかない、これ以上家族にも迷惑をかけるわけにもいかない。その思いが強かった私は母に対し「ずっといてもらうのも申し訳ないからもう帰っていい。」と伝え、翌日には家から出ていってもらうことにしました。正直、この時はすでに色々な面で限界が来ていたのだと思います。
結局、翌週の仕事に行く気力も出ず、休暇をいただくことになり、その上で、やはり正常ではないという判断に至り、当時お世話になった慶應病院にもう1度行くこととなりました。

休職(2020/6/3週目)

慶應病院での診察。当時の事例も踏まえた上で、2度目のうつ病診断。とりあえずは3ヶ月の休職期間をいただくこととなりました。
「またなってしまった。もう2度目は立ち上がれないな。」そんな気持ちを抱きながら病院を後にしました。

休職期間(2020/6月末〜9月末まで)

休職一週目。この時はまだ関東で生活をしていました。大阪に帰ると、それこそもうこっちに戻ってくることはできないと思っていたのだと思います。
毎朝、「終わった。人生台無しにしたな。これからどうしよう。」と考える所から一日が始まっていました。休職をしたと噂を聞いた友人からの連絡。「元気?」と軽く探るような連絡をしてくれる人もいましたが、あの時はその連絡でさえ負担になっていました。
間違いなく元気ではないし、何と返信をすればいいのかもわからない中、返信できなくて申し訳ないなという不安事項が増えてしまっていたからです。1ヶ月ほど後に返信をすることはできましたが、その当時はすみませんでした。
その中で、ネガティブな発言、雰囲気しか出さない私を必死に支えてくれていた母にもとうとう限界がきてしまいました。ある朝、目を覚ました時に、これまでに見たことのないほど号泣している母の姿を見ました。「私はどうしたらいいの。別に仕事しなくてもいいやん。私はとりあえず匠が生きていてくれたらそれでいい。」そんなことを言われました。
とてつもなく胸が苦しく、申し訳ない気持ちになっていましたが、涙は出ませんでした。この時、自分は感情も失ってしまったのかな?とも思いましたが、そういった状況も整理できないくらい、精神的に追い詰められていた状態だったのだと思います。
ただ、その姿を見てこのままここにいても拉致があかないと思い、大阪へ戻って休養をとることを決めました。
大阪に戻ってからも、同じような日々が最初は続きました。何もポジティブに考えられず、平日に実家で寝ている自分の姿があまりにも虚しく、情けなくも感じていました。その中で、中学時代のバスケ部の友人から連絡が入りました。
ここでも「元気か?」という内容でしたが、少し落ち着いていたということもあり、彼には自身の現状について伝えることにしました。そこでまさかの出来事が起きました。
私の現状を伝えた後に彼は「実は俺もちょうど一年前にメンタル不調になって会社を数週間休んでいた。」という事実を打ち明けてくれました。そういった要素を感じたことのなかった友人でしたの驚きましたが、それからは「病んで会社を休んだ時の生活あるある」みたいな会話が始まりました。
「休んでる時、動けるは動けるけど世間体的にどこまで外にも出ていいものなのかわからないよな。」というような小さなあるあるネタをお互い笑いながら話していたことはしっかりと覚えています。確か、深夜に3時間ほど話をしていました。
そして電話の翌日、これまでとは比にならないくらいに前向きに動き出す自分がいました。おそらく、一人でも自身の状況に共感をしてくれる人がいるという安心感と、それが昔から仲良くしていた友人だったということが大きかったんだと思います。
こういった友人に自身の状況を知られて気を遣われたり、これまでと違う接し方をされることが私の最も恐れていたことだったので。
それからは当時、入会していたジムにほぼ毎日通い、まずは汗を流しました。その上で、ストレッチスペースの鏡の前で、ストレッチなどをしながら30分ほど自身の今後について常に考える日々。(家で考えるより、運動をしてからの方が確実にポジティブな思考が生まれやすいので本当にオススメします)
とりあえず社会に置いてかれまいと、政治や経済の情報を積極的に仕入れ、関心の持った本を読む日々。以前から経済情報を見てはいましたが、改めて諸々の内容を詳しく見ると至るところで自身が中途半端に理解していた内容があらわになり、すぐさま本屋へ。
24歳になって、再度高校生向けの教科書や資料を買うとは思っていませんでしたが、それほど学習意欲には満ち溢れていました。(初めて義務教育学習の内容を能動的に学ぼうと思えた瞬間でした)
それ以外にも、プログラミングに少し興味を持ち、月額 1000円のサブスク教材を購入。ここにもどっぷりのめり込みました。動画の視聴時間、レッスン完了数などがわかりやすくデータにも出て、自身が少しは前進しているのだなという感覚にもさせてくれました。加えて、学んでいる内容も徐々に理解が深まっていく感覚もあり、当時の自分にとっては大きな精神安定剤でした。
平日、休日問わずのめり込んでいたので、学習時間等のランキングは同じ時期に入会した約2400人の中でも上位。これだけ前向きに取り組めたのも、学んでいる内容が今後どのような道に進んだとしても、何かしらの形で役に立つ可能性が高い内容であったことが大きな要因としてあると思います。
その上で、自殺が絶えない社会状況を目の当たりにしたことや、自身の性格なども全て踏まえた上で、「私と同じような思いをする人が少しでも減るように。1人でも多くの人が顔を上げて前向きに生きていけるような社会を作るための情報発信活動を始めよう」と決意しました。
どのような結果になっても、私が今後の人生を前向きに生きていくためにはこの方法しかないと思いましたし、どのような未来でも受け止める覚悟ができました。

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